IE9ピン留め
ここでは、極めて短い掌編小説を試みようと思います。どこか奇妙で、ありえないのにそれらしくなりたち、ヘンな可笑しみさえ感じられるような連作集になればいいなと願いつつ。
by tokok2
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 眠れない夜だった。青年は寝返りを打った。彼は思った――月が明かる過ぎるのだ。
 彼は寝床で耳を澄ます。蛙が遠くで鳴いている。しんしんと鳴いている。
 彼は再び寝返りを打つ。駄目だ、眠れない。彼は溜息をついて起きあがる。
 枕元の円い硝子の眼鏡を取り上げると、彼は寝床を抜け出して蚊帳をくぐり、軋む階段をそっと下りる。家の者は昼間の疲れでぐっすり眠っている。それを起こさないように気をつけて、彼は静かに外に出た。
 静かな田舎の夜だ。月の光が皓々と田圃を照らし、水面の反射で辺りは昼間のように明るい。夜風が微かに吹いて、青い稲の穂を揺らす。蛙の声は、耳にさやか。
 彼は畦道をゆっくり渡って行った。空気は丁度よく涼しい。
 彼は漠然と、いつになったら帰れるのだろうと考えた。彼は東京で学生をしていたのだが、三年前胸を患い、今は、母親の実家のあるこの村で、療養と体力回復のためにぶらぶらしているのだった。
 彼は、東京での生活のことを自分の馴染みの古本屋の親爺や下宿のおかみさん、そして、学問から他愛もない悪戯まで、様々なことを共にした学友たちのことを思った。しかし、それはほんの一瞬。遠く霞んだ過去の出来事。中途で自分が消えてしまった昔の思い出。 彼は頭を振って、微かににがい思いを風に流した。
 畦道を渡ると、田んぼの向こうは雑木の林になっており、少し急な傾斜を経て、小さな山に続いている。彼は、林の中へと歩みを進めた。
 月の光は木々の枝を透かして林の中へも差し込む。彼は、月光を浴びるように頭を反らして目を閉じた。
 月の光は人を物狂いにさせる。彼はふと、そんな欧州の言い伝えを思い出し、軽く笑った。こんなにたっぷりと月光を浴びている俺は、立派な気違いか。
 彼はそろそろ戻ろうかと考えて、頭を下ろして目を開けた。そして、見た。
 それは、蛹だった。土の中から木の肌をぞろぞろと無数に這い上がる、飴色の蛹だった。
 それらは月の光を受けて淡く輝き、樹皮の上にくっきりとした小さな影を落とす。それらの蛹は、まるで始めから決められていたかのようにそれぞれの位置で歩を止め、そして静かに震えはじめた。 彼は、馬鹿のようにただそれを見ていた。
 蛹は、清楚に身悶えする。ひかえめに、息を吐いて、身を捩らせる。すると、その背に細い微かな割れ目が入り、羽化のはじまりを告げる。
 月の光に踊らされるように、蛹はひときわ大きく身震いする。すと、その背の割れ目の隙間から、裸の少女が溢れ出る。無数の蛹が、あとからあとから少女に羽化する。林は少女に満ちる。
(少女の蛹‥‥)
 青年は呟いた。目を、大きく見開いたままで。
 羽化した少女らは、まだどこかぎこちない様子で、腕を動かしてみたり、何も映さないような薄い目でまわりを見回してみたりする。濡れた皮膚が月光をはじく。林を渡る風が、少女らの体や髪の毛を、少しづつ乾かしはじめた。少女が軽く頭を振ると、髪の毛がさあっと躍った。
 乾いてゆくにつれ、少女らの手足も固まってゆく。動作はだんだんしっかりする。少女らは大胆に身動きし始める。しなやかに伸びをしたり、高く喉をそらしたり、腕を機敏に震わせたり。
 そのうちの誰かが、唇を開けて声を鳴らした。すると、それに和して、少女らは次々に鳴き始める。鈴虫のような、ちりりという澄んだ幽かな鳴き声である。それは互いに共鳴し、増幅しあって、林の中を透明な音の響きで満たす。
 青年は、鼓膜を圧倒されて立ち尽くした。
 その時、雲が月を隠し、林の中が翳った。少女らは不意に口を閉じ、身動きを止めた。
 息詰まるような、期待のようなものに満ちた一瞬の後。
 雲は切れて、月光がさあっと流れた。その瞬間、少女らが一斉に翔び立った。風を切る、無数の少女たち。青年は、うわあと叫んで目をつぶり、腕で顔を庇った。顔の脇を、少女たちの翅が掠めてゆくような感触がした。
 彼が目を開けたとき、林はもとのように、月光の中静かに風を渡しているだけだった。彼は、しばらくの間ぼんやりした。少女は、跡形もなかった。
 そして彼は頭を振った。もと来た畦道の方へと歩き出した。
 彼は胸のうちで呟いた――つきが、あかるすぎるのだ。眠れないから夢をみた。
 うつむきかげんの彼の目には微笑。林をぬけると、青い稲の匂いと蛙の声がする。村の家々の、寝静まったたたずまいが見える。
 さあ、帰ろう。彼は、自分の家をめざした。
# by tokok2 | 2011-07-14 14:41
ヨネダアパート
ヨネダアパートの大家さん、ヨネダさんが失踪した。
隣の住人、タマコさんが発見した。
ヨネダアパートは築40年、オンボロのちいさなアパートである。
1階がヨネダさんの住まう部屋、外階段を上がって2戸部屋があり、奥がわたし、手前がタマコさんの部屋である。
オンボロさのおかげか家賃が安くてペットOKなので、ネコを飼っているわたしとタマコさんは、引き寄せられるように相次いで入居した。
ネコつながりでわたしとタマコさんは急送に接近し、今ではタマコさんは毎晩9時になると、ネコのナレちゃんを連れてお茶を飲みに来る。
ヨネダさんは御年35の青年と言ったらいいか中年と言ったらいいか迷うような年で、それでもまだ働き盛りであることは確かである。
だが、お母様とお父様を早くに亡くしたヨネダ青年は、もともと家付き一人っ子のお坊ちゃまであるせいか働く意欲を失くし、程なくわたしとタマコさんの家賃収入だけで暮らす低燃費の生活に入った。
それでも暮らしていけるのが低燃費の低燃費たる所以である。
が、失踪とは。
先日のことであった。
お茶を飲みに来たタマコさんは、おせんべいを袋の中で用心深く割りつつ、言った。
「ヨネダさんが、いなくなりました」
「はい?」
わたしは手元が狂って急須からお茶をこぼし、慌てて台拭きでぬぐった。
「わたしが昨日家賃を払いに行きますと、ヨネダさんがいないのです」
「あの、どこかに出かけていたのではなく?」
「どうも違うようです。アサコさん、よかったら今から見に行ってみませんか?」
わたしとタマコさんは、別にひそめる必要もなかったのだが外階段の足音をひそめて階下に下り、ヨネダさんのうちの呼び鈴を押した。
ヨネダさんは出てこない。
「ねぇ?」
タマコさんはひそひそと言う。
「ヨネダさん……失礼しますよ……」
声をかけつつ引き戸に手をかけると、引き戸は軽い感触を持ってからからと開いた。
「ヨネダさん……」
覗き込んだ中は暗い。
「ねぇ。いないでしょう」
わたしとタマコさんは顔を見合わせた。
その時、奥からちいさな声がした。
どちらともなく顔を戻すと、
「にゃあぁ……」
奥の暗がりから出てきた、それは、ちいさなトラ縞のネコなのであった。
「これは……」
わたしとタマコさんは、再び顔を見合わせた。
「これはノラちゃんでしょうか」
わたしが言うと、タマコさんはそのネコをじいっと凝視しつつ、言った。
「違うようです。毛並みもいいし、痩せてない。家ネコです、これは」
「ヨネダさんも実は飼っていたんですかねぇ」
呟くと、タマコさんはまだ続けてそのネコを凝視していたが、驚くべきことを言い出した。
「これはきっと、ヨネダさんです」
「え」
「ヨネダさんはネコになったんだと思います」
「え、だって」
「ほら、ここ」
タマコさんは、ネコの額を人差し指でつんと押さえた。
「ヨネダさんはここにほくろがあったでしょう。このネコにも、ちゃんとその模様がある」
ネコはふるりと顔を振ってタマコさんの指を外すと、前足を舐めて額を撫で始めた。
その額には、確かにヨネダさんのほくろのような、ちいさな丸い斑がある。
「どうしましょう」
わたしが思わず声を上げると、タマコさんは首を傾げた。
「どうしたんですか」
「わたし、今月の家賃まだ払っていないのですが」
「わたしもです」
「ネコには払わなくてもいいんでしょうか」
「いいんじゃないですか」
「じゃあ、今後は家賃払わなくてもいいんでしょうか」
「いいんじゃないですか」
見ると、タマコさんは口笛でも吹き出しそうな顔つきをしていた。
「おいで、ヨネ」
タマコさんが呼ぶとネコはおとなしく歩み寄ってきた。
タマコさんは手を伸ばしてそのネコを抱き上げた。
「どうするんですか」
「しょうがない、わたしが保護します。ネコはひとりじゃ食っていけないんだから」
タマコさんはどことなく嬉しそうだった。
「タマコさん、嬉しそうですね」
言うと、
「わたしにしてみりゃ、ヨネダさんよりネコの方が嬉しいに決まってます」
とタマコさんはうそぶいた。
# by tokok2 | 2010-06-19 11:04
イソギンチャク
幼い頃の話である。
目が覚めると、あたりはすっかり水没していた。
床上浸水とかその程度の話ではない、天井までずぶりと水の中だった。
顔のあたりを、炊飯器ややかんや布団や枕が、ぷかぷかと漂って過ぎた。
不思議と息は苦しくなかった。
重たいゼリーのような水の中を、腕で漕ぐようにして歩いた。
父や母、姉を探したが、家の中にはどこにもいなかった。
水の抵抗を押しのけながら、玄関に出てドアノブをひねった。
ドアは重く、体を一杯に使って体重をかけながら、外に向かって押し開けた。
両手を泳ぐように使って、外に出た。
空を見上げたが、どこまで見上げても水の中で、果てが知れなかった。
往来は人気が全くなかった。
隣の家の人は、向かいの家の人は、見回すがどこにもいないのだった。
裏のたけやぶを通った時だった。
「きぃちゃん」
姉の声が呼んだ。
声のするほうを見ると、姉の顔だけがぽっかり浮かんで見えた。
「ふみちゃん」
呼んでそちらへ一歩踏み出すと、サンゴ色の触手がたなびいた。
恐れて足を止め、まじまじと見ると、姉は巨大なイソギンチャクの中から顔だけが見えているのだった。
イソギンチャクは呼び寄せるようにこちらへ向かって触手を振るのだった。
「何してるの」
問うと、
「溶けてる」
と姉は答えた。
「どうして溶けてるの」
訊くと、
「水に浸ったから溶けてる」
と姉は答えた。
「おとうさんとおかあさんは」
「溶けてる」
見ると、姉の隣に、同じようにイソギンチャクから顔だけ出している父と母の姿が見えるのだった。
「きみこ」
母が呼んだ。
「きみこも早く溶けなさい」
「さあ、きみこ」
父も呼んだ。
「皆さんが待っている」
その時気づいた。
父や母の隣にずらりと連なって、隣の家の人々、向かいの家の人々、ご近所の人々がみな揃って、イソギンチャクから顔だけ出してこちらを見ているのだった。
「さあ、これがきみこのイソギンチャクだ」
端っこに、主のいないイソギンチャクが、ぽかりと口を開けて触手をひらひらさせていた。
「イヤダイヤダ」
急に嫌悪の情が湧き出して、走って逃げた。
水の抵抗が重たく体にまとわりつき、一心に走ってもなかなか距離ははかどらなかった。
やっとのことで家に帰り着き、浮かんでいる布団を掴んでくるまった。
そのうち本当に眠ってしまったようだ。
目が覚めると、水は引いていた。あとかたもなかった。
隣で姉がすぅすぅと寝息を立てていた。
溶けているかどうかと思って、布団を下の方からそっとめくってみた。
姉の体は、ちゃんとそこにあった。
# by tokok2 | 2007-12-14 22:43
他界した弟と、偶然会った。
会社から帰りがけ、地下鉄の駅の中からひょいと出てきた。
自分はとっさのことで少しくうろたえたから、「どうも」と言ってしまった。
弟は、「久しぶり」と言った。
弟はスーツにネクタイを締めていて、「東京は暑いね」と言い、ネクタイを緩めた。
弟は大学生の時分に事故で亡くなったので、こんな格好は見たことがなかったが、どうやらあちらでは仕事に就いているらしかった。スーツがずいぶんしっくり身に合っていた。
「涼しいの?あの――あっちは」と歯切れ悪く訊くと、「暑いけどこんなに暑くはない」と言った。
「今帰り?」と訊くので、そうだと答えると、弟はもうネクタイを引き抜いてポケットにつっこんでしまって、「どこか飲みに行こう。ビールが飲みたい」と言った。
小さな焼き鳥屋に行った。
カウンターに並んで座りながら、ビールのジョッキを傾けた。
「今――何してるの?」
「信用調査」
「それって何?」
「ん――会社の経営実績とか。売り上げとか。そんなの」
「あっちにも会社があるの」
「いや、こっちの」
「こっちの会社調べるの」
「うん」
「へえ」
「会社の経営状況が人の生き死にに関係することもあるから」
「へえ」
それで弟は出張で東京に来たという。
「いやあ、ほんとに暑いね。スーツなんか着てられない」
「その東京で毎日働いてるのよわたしは」
「俺にはとても無理」
弟はジョッキをぐいと空けて、2杯目を注文した。
「これから帰るの?」と訊くと、「いや、遠いから日帰りは無理」と言う。
「どうするの」
「学生時代の先輩が東京にいるから、泊めてもらう」
「泊めてくれるの」
「うん。この間も泊まった」
話の分かる先輩もいるものだ。感心していると、
「熊にぶつかった話したっけ」と言う。
「いや、聞いてない」
「この間さ、山田の山ん中車で走ってたらさ、熊にぶつかって。ドアがべっこべこ」
「車」
「うん。会社のね」
弟はさらりと言う。
「うちの会社、事故にうるさいから、とりあえず警察に行って熊にぶつかった証明もらって」
「警察行ったの?」
「いや、あっちの。一応あるから」
弟はぐいとビールを飲む。気持ちいいほどの勢いのよさだ。
「で、うちの会社、事故ると全支社にネットで流すのね。どこどこ支社でドアをこすりましたの、どこどこ支社でぶつけましたの、そういうの」
そして弟は面白そうに笑った。
「爆笑ものだよ。盛岡支社で熊とぶつかりました、なんてコメントが流れたらさ」
つられてわたしもふふふと笑った。
此岸も彼岸もこれだけ変わりなく、弟も元気でやっているならいいや、と思った。
もうしばらくジョッキを進めて、焼き鳥屋を出た。
「お盆には帰ってくるの」と訊くと、「うーん、うちの会社、休みが交代制なんだよね。家族持ちの人もいるから、今年はお盆避けて休み取ろうかと思ってて」などと言う。
迎え火を焚く親の立場はどうなるのだ。
そう思って、とりあえず、「親不孝者」と言っておいた。
# by tokok2 | 2007-08-07 20:28
鳥 ~a chinese dish~
 皇帝が死んだ。
 その知らせを聞いたとき、彼は少しうろたえた。彼が新しい丹薬を調合した、その夜であった。どう考えても死因は彼の薬であった。じき、自分を捕らえに刑吏の者が来るだろう。なぜ、という気がした。やっぱり、という気もした。
 彼は皇帝付きの煉丹師だった。皇帝のためにありとあらゆるものを混ぜ合わせて薬を作った。彼は自分で丹薬を練りながら、その術を少しも信じていなかった。あやしげな、体に害をなす金属や鉱石を、どう混ぜ合わせようと、不老長寿の薬になる訳がなかった。皇帝がそのあやしげな薬にすがって不死の望みにしがみついているのを、彼は嘲笑しながら見ていた。彼には不死の望みなど無かった。彼が丹薬を練るのは、飯の種のため、皇帝が彼に与える莫大な報酬のため以外の何物でもなかったのである。
 ものごころついた頃、彼の初めての記憶は母親の葬儀だった。母親は粗末な木の棺に納められて、忙しく立ち働く近所の女たちに邪険にされながら、幼い彼はさんざしの実をしゃぶっていた。父親はとうに死んでいた。父親に、母親に、彼は取り残された。葬儀が終わると、親に取り残された幼い彼だけがいた。
 皇帝は本当に死んだのだろうか。彼はぼんやりと考えた。あんなにもぎらぎらと生に執着していた醜怪な老人。なんだかあっけなくて滑稽だった。あまりにも滑稽で、哀しかった。
 人があっけなく死んでいくのは、見なれた光景だった。母親の葬儀の後、みなし児になった彼は、程無く浮浪児のグループの一人となった。食べることに必死だった。かっぱらいも、畑からの盗みも、民家の襲撃も、何でもした。食べられなければ死ぬだけだった。冬の寒さも、夏の暑さも、容赦なく彼らを襲った。冷え込んだ夜が明けた後は、必ず誰かが死んでいた。
 吏人がやってきた。彼らは、荒々しく彼に縄を掛け、引き立てた。ほんとかよ、と彼は思った。自分が捕らえられることに対してではなかった。自分を捕らえる者の出現によって、実際起こったのだということが確かになった、皇帝の死に対してであった。本当に死んでしまったのだと思うと、皇帝があまりにも哀れ過ぎた。あれ程までに生に執着した男は死んでしまった。それを臣下までもが認めたならば、あの男の生きた意味はどこに行ってしまうのか。皇帝はこのまま死んでしまってはいけないと、彼は思った。
 彼は朝廷に引き立てられ、並みいる重臣たちの面前で、うしろ手に縛られ、ひれ伏すことを強いられた。大臣が、朗々と彼の罪状を読み上げた。
『其の者、偽りの丹薬を処方し上を害するの罪によって、斬刑に処す』
 ちがう、と彼は思った。そうではない、と思った。彼に、罪を免れたいという気持ちがなかったとは言えない。確かに、彼はできることなら何と言い逃れてでも助かりたかった。しかし、それ以上に、こんなことで皇帝が死んでしまってはいけないと思った。皇帝を崇拝していた訳ではない。ただ彼の心中には、生きたいとひたすらに願い、足掻き続けた一人の初老の男に対する、ある哀しみと憤りがあった。
 彼は無理矢理立ちあがった。役人が慌てて引き据えようとした。それを喝と叱りつけて、かれは大音声に語り出した。
『陛下は崩御なされたのではない。 俗体を捨てられて、昇仙なされたのだ』
 誰もが一瞬迷った。本当なのだろうか?それは信じ難かった。しかし、それを疑うことは皇帝が昇仙したことに対する疑いとなる。
 彼は続けた。
『陛下は仙人になられたのだ』
 廷臣たちは、騒然としてきた。彼の言葉が引き起こした波紋だった。ああ、そうなのだ、と彼は自分でも初めて分かったような気がした。皇帝が仙人になったということは、彼がこの場で咄嗟に口にしたことであったが、この言葉を発した瞬間、彼にはそれが真実であるように思えたのであった。それは彼の目の前を明るくした。
『疑うのか?皇帝が神仙になられたことを、疑うのか?』
 おれは正しいのだ、と彼は思った。繰り返せば繰り返すほど、その言葉は真実となっていった。彼は今や自分の言葉を疑わなかった。なにやら楽しい気さえした。威厳に満ちた声で、酔ったように彼は続けた。
『陛下は仙人になられたのだ』
 彼の耳には、鳳凰の鳴き声が聞こえていた。それは、皇帝の声のようでもあったし、自分の声のようでもあった。
# by tokok2 | 2007-07-24 20:23
天児花2
 幾年かたったがえりこは知らない。その年の初め、まだ沼の岸に雪を残しながら、寒さの緩んだ初春の空気に、えりこは冬の眠りから覚めた。少しづつ花弁を開き、その小さな顔をのぞかせると、まだ幾分冷たい空気が眠りを洗ってくれた。そっと辺りを見回すと、皆はまだ目覚めていないようだった。えりこはひとりで静かに回転してみた。
 くるりくるりとその遊戯を楽しんでいると、沼の土手のむこう、林の遠くの方から、何か騒々しい物音がした。沼に段々近づいてくるようだ。
 それは、人間の男女の声だった。
「えりこ、えりちゃん、ねえ返事して!」
「えりこ、いるんだろ、えりこ!」
 この静かな沼へ耳障りな闖入者だった。泥の中からぷつぷつと開かれる花たちの意識が、沼じゅうに広がっていく。みんな目覚めてしまった、とえりこは思った。
 えりこは軽い抗議の気持ちを持って、段々近づいてくる彼らを待った。
 雪解けのぬかるんだ土手を、滑り、転びながらやってくる彼らは、みすぼらしく見えた。

 女が言った。
「ねえ、ここ何、沼よ?」
 苛立ったような声で、男が答えた。
「ああ、沼だよ!だから何だ、探せよ!」
 女はおそるおそる沼に近づいた。
「あら。蓮かしら、花よ、花が開いてるわ。」
「花がどうした、花くらい咲いててもいいじゃないか!」
 男が乱暴に怒鳴りかえす。えりこは怒りの目をまっすぐ彼らの方に向けた。
 女は男の不機嫌にも頓着せず、
「だって、この季節よ、花だなんて──」
 そう言いかけて息をのんだ。そして、悲鳴を上げて男を呼んだ。
「ねえ、あなた、早く来て、えりこよ、えりこよ!」
「ばかな!」
 男はあわてて女の指すところをのぞき込んだ。
 彼らの見たのは、小さな白い花の中、黒い瞳でじっと見返すえりこの顔だった。
「ね、えりちゃん?えりちゃんでしょ、そうなんでしょ?」
「えりこって、だって、花だぞ!」
 半泣きのような男の声。

 沼の空気はざわついている。花たちにとって、彼らは見知らぬ侵入者だ。
 えりこは怒りを目に込め彼らを見ながら、遠い何かが脳裏を掠めるような気がした。自分がまだ何か違う生き物で、沼の外を歩いていた頃。
「えりちゃん、ねえおかあさんよ。お願い、一緒に返りましょう。」
「えりこ、寒いだろ、沼から出ておいで。さあ。」
 自分に向けられる懇願が、えりこにはひどくうっとうしく感じられた。ワタシハモウソノウチノコジャナイ。
「ねえ、えりちゃんお願いよ。えりちゃんのおうちに帰りましょうよう。」
 涙を流す女の顔がひどく醜く見えた。
「こうちゃんね、えりちゃんの弟ね、事故で死んじゃったのよ。交通事故でね、こうちゃん死んじゃったのよ。」
 女はしゃくりあげる。男はその肩に手を置いた。
「えりこ、だから今おとうさんとおかあさんは二人っきりなんだ。おかあさんは毎日泣いてる。おとうさんもつらいよ。おとうさんたちには子どもが必要なんだ。だから、なあ、えりこ、戻ってきてくれないか。」
 えりこは黙っているだけだ。

 虫のいい申し出の白々しさが沈黙の原因だとでも思ったのか、鼻の脇を掻いた後、男は急に熱っぽく語った。
「なあ、えりこ、おとうさんあの後すごく後悔したんだ。えりこに酷いことをしたんじゃないかって。だからもしいつかはと思って、がんばって働いて、おまえを引取りに来れるくらいのお金もできたんだ。今までつらい思いさせたけどその分まで可愛がる。おまえがして欲しいことは何でもしてやる。おとうさん、そうするつもりだ。」
 女は音をたてて洟をかみ、涙の溜った目をえりこに向けて微笑んだ。
「今までご免なさいね。おかあさんもえりこが戻ってきてくれたら、うんと可愛がるわ。えりこの好きなもの、何でも作ってあげるわ。どこにでもつれてってあげるわ。」
 甘い贖罪が彼らの口からこぼれる。ごく当然のように子捨てを決めたその口で。
 沼全体が不穏にざわめいている。
 ネエ、アレハワタシタチノテキ?ミカタ?
 人間の大人二人には、それが分からない。

「さあ、早く沼から上がりなさい。」
 男が言った。彼らは、えりこが戻ってくるということに疑問を持たなかった。
 女はショールの襟をかき合わせて、薄気味悪そうに沼を見渡した。
「寒いところね、ここ。じめじめしてるし、きっとバイ菌だらけよ。えりちゃん、変な病気にかかってないわよね。」
 沼の面を、さざなみのように怒りが走った。
「さ、早く行きましょ。」
 女は急き立ててえりこの手を取ろうとした。
 その時急に風が吹いた。あおられて、男と女は顔をかばった。花たちは風の吹くまま花弁を震わせ、水面を激しく叩いた。沼中が狂暴な喜びに湧くようだった。
 風がやみ、沼が静まった。
「ふう、嫌な風ねえ。」
 女は髪を直し、沼を見た。
「さ、行くわよ、えりちゃん。」
 そこで彼女は言葉を失くした。
 彼女は見た。水面を埋めつくす幾千幾百の白い花々を。開いた花弁の中から、小さな顔、ビー玉のような目が彼らをじっと見ているのを。
「えりこ、えりこ!」
 彼女はひどく焦って叫んだ。
「どうしたんだ。」
 そう言って振り向いた男も、言葉を失った。
 彼らには自分の娘を見分けることができなかった。
「えりこ!どこだ、返事をしろ、えりこ!」
 一面の白い花。一面の白い顔。そして瞳、瞳、瞳。どの顔も何も言わず、まったく同じ少し嘲るような無表情のほか、何も読み取ることはできなかった。
 女は思わず夫に身を寄せた。そして男も、何も言わず妻の肩を抱き寄せることしかできなかった。
 花たちの目は、この迷い込んできた二人の大人を捉え、放さなかった。
 背筋に冷たい汗が流れた。二人は互いの手をきつく握りしめた。
 どのくらいたったのか分からない。
 ふいにこの遊びに飽きたかのように、ひとつの花がぱたんと花弁を閉じた。それをきっかけにしたように、花は次々閉じていき、次の瞬間には、つぼんだ白い花が沼の面に、何もなかったように揺れているばかりだった。
 大人たち二人は、この美しい風景の中に取り残された。
 春の暖かい日差しがおりてきた。
# by tokok2 | 2007-04-07 21:51
天児花1
子捨てが流行った。
出生率が底を突いたこの時代、優秀な種のみを残そうと、意に沿わない子どもを廃棄するのが、流行となった。
子どもはひとり。それがスタンダードとなった。
世の中のおかあさんたちは、ぴかぴかの優秀な赤ん坊をひとり、誇らしげにベビーカーに載せて闊歩した。

えりこは山に捨てられえた。
おとうさんの手で山に捨てられた。
灰色の車の後部座席に乗せられて、川の端に停めた車から降り、抱き上げられて川を渡り、山深くに分け行って、大きな松の根元に捨てられた。
 割れたテレビのディスプレイ、ちぎれた洗濯機のホース、そういった、赤錆れた雨水のたまる、命終えて捨てられていったものの中に、生きた人形のように捨てられた。

 なぜえりこが捨てられたかというと、えりこのうちに赤ん坊が生まれたからだ。
赤ん坊は元気で大きな男の子で、昨日、おかあさんと一緒にうちへやってきた。真っ赤な顔で、小さな布団にうずまって、一所懸命眠っていた。手も足も顔もむちむち太っていて、三歳のえりこよりよけい大きく見えた。
 おかあさんはやさしく赤ん坊を見、豊満な胸が赤ん坊の鼻を塞がないよう十分注意して、ゆっくりと母乳をあげていた。えりこはわきのほうにきちんと正座して、興味深くのぞきこんだ。赤ん坊が黒目がちの目でどこかを見て、一心に口を動かしている様子は、本当にかわいいと思った。
 おかあさんは赤ん坊から目もはなさずに、言った。
「もう、えりこは捨てないとね。」
「そうだな。」
 おとうさんはシュッとライターを鳴らし、煙草に火をつけた。
「子どもは一人で充分らしいからな。」
「そうよう。」
 おかあさんは機嫌がよかった。まるではな歌でも出てきそうなくらいに。
「河野さんのお宅、二人連れ歩いてるのよ。貧乏くさくて恥ずかしいわ」
 おかあさんがご近所の子ども事情を演説しだす前に、おとうさんは灰皿を持って窓際に退散した。本当は禁煙だった。新しい赤ん坊に煙を吸わせないように、新しい赤ん坊を汚染しないように、生まれる何か月も前から、おかあさんは言い続けてきたのだ──いい、絶対煙草は吸っちゃだめよ。どうしても吸いたいなら、外で吸って匂いが完全に消えてから帰ってきなさいね。
 だからおとうさんは約束違反をしているのだが、おかあさんは大目に見ているのか、最後の情けなのか、何も言わなかった。白い煙が夜の空にすうっと流れた。
「何だか可哀そうな気もするな。」
「それは、しょうがないわよ。」
 おかあさんは、母乳を飲み終えた赤ん坊の口元を、白いガーゼでやさしく拭いた。
「だって、こうたが生まれたんだしそれに、えりこは最初から練習用に作ったんでしょ?次の子が生まれたら、捨てる約束だったじゃない。」
「そうだったな。」
 おとうさんは再び白い煙を夜空に吐いた。
「本番はうまく男の子が作れたし。」
 おかあさんは明らかにはしゃいでいる。
 そうさ、そのために俺もいろいろやらされたよ。精密に計算された性交日、深いインサート。クラシック音楽と膨れた腹への話しかけ。出産に立ち会って、待ちに待った男の子が血の塊として引きずり出される瞬間。
 おとうさんは自分の心にひろがる苦々しい気持ちに気付いて、驚いた。そうだ、はじめから、俺たち夫婦で決めたんじゃないか。初めの子の、えりこの性別が分かった時から、この子は練習用に育てようと。
 おとうさんは深く煙草のけむりを吸い込んだ。結局は、生殖細胞のうちに捨てるか、人間になってから捨てるかという違いだけだ。──そう、どの家だって、結局黙認している国だって。
 いつの間にか根元まで灰になっていた煙草を、おとうさんは灰皿に押しつけ、新しい煙草に火をつけた
「ねえ、えりちゃん。」
 おかあさんははじめて顔を上げ、えりこに笑いかけた。
「明日ねえ、おとうさんがお山に連れてってくださるって。楽しみねえ。」
 えりこは大きな目でおかあさんをじっと見た。オカアサン、ウレシソウ・・・。だからえりこは、これはいいことなんだと感じた。
「そう、お山に行ってねえ、えりちゃんはそれからずっとそこにいるのよ。そして、おかあさんとお約束。もうおうちに帰ってきちゃいけません。おうちにはもう、あかちゃんがね、こうちゃんがいますからねえ、えりちゃんのいるとこないのよ。分かったわね?」
 えりこはこっくりうなづいた。それは本当なんだと思った。ふくふくと太った元気そうな赤ん坊を見れば、おかあさんの言うことに間違いはないという気がした。キョウカラアノアカチャンガ、エリコノウチノコニナルンダ。
 おかあさんは赤ちゃんを抱き上げ、背中をとんとんと叩きはじめ、げっぷをさせた。
「でもえりこは本当にいい練習になったわ。これで、こうたはうまく育てられるわよ。」
 おとうさんは無言で煙草をふかし続けた。落とし忘れていた長い灰が、重さに耐えかねてボロリと窓の外に落ちた。
(また禁煙しないとな・・・。)
 おかあさんがきっぱり言った。
「明日からは煙草は終わりよ。」
 それもまた、三年前に実践済みだった。
試行錯誤とあまたの間違いをえりこと共に脱ぎ捨てて、彼らは、世間の信じる完璧な家族の生を歩もうとしている。新しい、白紙の、赤ん坊と共に。

 山の上は静かだった。どこか、ずっと高いところで、鳥の鳴く声がしていた。雨上がりの濡れた松の匂いがした。
 おとうさんは慣れないゴム長の足を大儀そうに動かして、濡れて滑りやすくなっている山道を歩いた。えりこをおぶっているので、なおさら歩きにくかった。彼はすべてを振り落として走り去りたい気分をずっと味わっていた。しかし現実は、彼に家族を振り落とせないように、彼はえりこを揺すって背負い直し、また黙々と歩くだけだった。
 歩き続けるうち、木にしばりつけた手書きの看板がちらほら見え出した。「不法投棄ヤメロ」「大型ゴミ迷惑です」などといった文句に混ざって、「こどもすてるな」などの文字も見え隠れした。
 もうすこしだ。おとうさんは自分に言い聞かせた。額の汗を拭って、黙々と歩いた。彼は、ある場所を目指していた。
 そしてその場所はふいに開けた。
 大きなスチール製の看板が立っていた。山林管理者である市の名前が入っていた。
「不法投棄をしないようにしましょう」
「大型ゴミや産業廃棄物、いらなくなった子どもなどの投棄は、条例で禁止されています。きちんと定められた方法で捨てましょう」
などといった文句が、雨に濡れながらくっきりと鮮やかな色をして、つるつるした看板の上に踊っていた。
 ここはこの市の、ゴミの不法投棄のメッカなのだった。市がどんなに対策を取ろうと、不法投棄は無くならなかった。実際に積み上げられた廃棄物。そしてみんな捨てているじゃないかという安心感。それは不法投棄者の罪の意識を軽くした。家庭の粗大ゴミから産業廃棄物まで、そして少し遅れていらなくなった子どもの捨て場所として、ここの存在は、口コミで市全体に急速に広まっていったのだ。
 えりこの父親もまたこの場所に立ち、何かひとつ荷を下ろしたような気分になった。彼はえりこを背中から下ろし、煙草に火をつけた。そこではじめてまわりを見ることができた。
 半分泥のような湿地帯だった。大型の冷蔵庫が傾いて埋まりながら、危なっかしくバランスを取っていた。そのそばで、錆びてボロボロになった三輪車がひっくり返って、車輪がきいきい言いながら廻っていた。そのそばに半透明に見えているものは、ビニール袋に入った注射器の針に違いなかった。
 子どもはいないんだな。父親はなんとなくほっとしてえりこを見下ろした。
「えりこ、いいか。おとうさん行くぞ。」
 えりこはしっかり頷いた。えりこには、自分の父親と母親が、自分をもういらなくなったのだということをよく分かっていた。
「それじゃあな。風邪ひくなよ。変なもの食うなよ。」
 父親は後ずさりし始めた。自分の言ったことの矛盾にも気付かず、滑る泥道に逆向きに歩く足を取られながら、彼はえりこの見えないところまで来ると、慌ててくるりと向きを変え、何かに追いたてられるように走りだした。

 ゴミの中でただ一人の人間であるえりこは、ぽつんと、また堂々と、立っているように見えた。
 父親の姿が見えなくなった頃、えりこはどこかに水の匂いを感じた。何か惹かれる匂いだった。
(コッチカナ・・・。)
 えりこは歩き出した。足は低い方へと進んでいった。ぬかるんだ泥と濡れた草が歩みを危なっかしいものにし、えりこは何度か転んだ。しかし、えりこは泣きもしなかった。
(コッチダ。)
 えりこに迷いはなかった。
 不意にぽっかりと目の前が開けた。
 そこは潅木に囲まれた小さな沼だった。そして、その泥水を覆い尽くすように、真っ白い蓮に似た花が咲いていた。
 花はたがいに軽く押し合いながら、水面でゆるやかに回転運動をしていた。えりこはゆっくり水際まで近づいた。滑らないように気をつけてしゃがみこみ、そおっとのぞいた。見ると、花はその花弁の中に小さな子どもの顔を包み込んでいるのだった。花たちはえりこの姿に気付くと、笑みこぼれるように花弁を開き、えりこに顔を見せた。
(ワア・・・。)
 えりこはうれしくなってにっこり笑った。本能的に、この花たちは自分の仲間なのだと感じとった。
 いろいろな花がいた。まだ花になって間もないのだというように手足を泥中にただよわせているものや、もはやほぼ完全な花となって、やすらかな眠りの中にあるように目を半ば閉じているものもあった。みな、穏やかでやさしい微笑を浮かべていた。沼は、尽きることのないやすらぎの、暖かい褥(しとね)だった。
 えりこは靴をぬいだ。靴下を足から引き剥がした。そして沼のふちに腰かけて、足をそっと水に下ろした。泥の感触がやさしくまとわりついた。
 えりこはそっと立ち上がった。立つと水は案外浅く、ふくらはぎの辺りに水面があった。水底のやわらかい泥の中に足は埋まり、指の間からにゅるりと泥の入り込む感触にえりこはくっくっと笑いを漏らした。
 そしてえりこはゆっくり進み始めた。えりこの動きが水面に小さな渦を起こし、それにのって花たちがくるりくるりと廻った。まるで一面に笑いが起こったようだった。
 えりこが中心部へ向けて歩くごとに水の高さは膝こぞう、お尻、と深くなっていき、花たちの円舞も沼いっぱいに広がっていった。
 ほぼ沼の真ん中で、えりこは歩みを止めた。えりこのまわりを無数の花たちが取り囲んだ。えりこはこの花たちが自分を歓迎してくれていることを疑わなかった。えりこは首まですっぽりと水に浸かった。泥は温かく四肢から染み込んだ。そして目を閉じ、皆のように自分を白い花弁が包み込んでくれるのを待った。
 えりこは、花になった。
 花の子どもたちは、花弁を縮らせて子房の中でゆっくり眠り、朝の訪れと共に花開いた。柔らかい泥の保護に包まれ、太陽のやさしい熱に温められ、ゆるやかにまわっては互いに触れ合って微笑んだ。泥中に深く伸びた彼らの手足は、複雑に繋がり合って地下茎を作り、同じ水を飲み同じ養分を吸った。えりこは程なくこの一塊の共同体に同化し、共通の穏やかな微笑みがえりこの顔を覆った。
# by tokok2 | 2007-04-07 21:44
無防備な娼婦
 デート、という言葉を男が言うまでこれがデートだと気付いていなかったので、びっくりした。
 ふたりで美術館に行ってお茶をして夜ご飯を食べてお酒を飲んでいる。デートといえばデートなのかもしれない。けれど、デートというものは、もっと何度か会って仲が深くなってお付き合いしてくださいはい結構でございますというやりとりがあって、初めて成り立つものだとばかり思い込んでいたのだ。
 仲の深い人ではない。会うのは二度目だ。友人の紹介で初めて会って、その時美術の話をした。では今度一緒に美術館に行きましょう。そういう話もした。それからしばらくして、ちょうど行きたい特別展が開催されて、わたしの恋人は誘ったのに乗らない顔をしてむにゃむにゃ言ったので、その人に電話をした。フジタの展覧会を観にいきませんか。いいですね行きましょう。深い意味はまるでなかったのに、人と人が擦り合うところに意味はできる、らしい。よく分からないけど。
 男の選んだ静かなバーだった。ジャズが(よく知らないので多分、だけど)ごく低音量で流れていて、年のいったバーテンダーがひとり、カウンターの向こうでグラスを磨いている。わたしと男は肩を並べて、緩いペースで飲んでいる。客は他に一組きり、お互いの話し声は低く、ちっとも邪魔にならない。
 これってデートなんですか?探るような目つきをして言ってみると、男はなぜかうれしそうな顔をした。きみはかわいいことを訊きますね。そんなことを言った。かわいいことじゃありません。大事な問題です。わたしには恋人がいますから。
 男は目を細めてわたしを見た。唇は口笛の形にすぼまった。それから、しゅう、というような音を立てて、声を出した。参ったな。
 きみは、恋人がいるのに男を誘うんですか。男は目をわたしの顔に向けたまま、静かに言った。わたしはとんでもなくいけないことをしたような気持ちになった。だって。お友達でしょう?それは子どもの言い訳みたいに響いた。
 男は喉で笑った。お友達。お友達ね。その通りだな。男は顔を前に戻した。それからグラスの酒をすいと空けた。おかわり。ダブルで。カウンター越しにバーテンダーに声を掛けた。酒が卓上に置かれると、もう一度わたしの方に顔を向けた。その顔はやさしくて、わたしはほっとした気持ちになった。
 手。そう言って男は手の平を差し出した。わたしはよく分からないまま手をその上に載せた。男は丁寧に指をたたむようにわたしの手を握った。ほらね。男は言った。きみはこうやって簡単に僕に手を握らせる。だって。わたしは戸惑う。あなたが手、って言ったから。男はやさしく笑ったままだ。何を言ったらいいか分からない。
 男は目を伏せて言った。きみの手は小さいね。すっぽりくるんでしまえるな。手をつなぐのはすき?ええ、割と。そう。
 ふと、男の顔がまるで泣いているように見えた。自然に手が出て、その髪を撫でていた。言葉がするりと口から出た。ねえ、泣かないでよ。わたしすきよ、Kさんのこと。だから誘ったの、今日。デートだとは知らなかったけど、一緒に行きたかったのよ。そういうの、いけない?
 男はうつむいた。もう一度笑ったようだった。それからゆっくりと手をほどいて、髪の毛に触れているわたしの手を静かに下ろした。出ましょうか。え。あっけにとられて男の顔を見た時には、男は落ち着いた仕草でだけど有無を言わせない態度で立ち上がり、わたしはドアに向かうその背をぼんやり見送った。
 遅れて店の外に出ると、男が待っていた。その前に歩み寄って、顔を見上げた。ごめんなさい。そう口から出た。男は首を傾げて笑った。なんで謝るのかな。分からない。ごめんなさい。もう一度言った。肩に男の手がかかるのを感じた。目を上げると男の顔がゆっくりと下りてきて、唇に唇が重なった。そしてゆっくりと離れた。
 きみは抵抗しないんだね。男はやっぱりやさしく笑っていた。もし僕がホテルに行こうと言ったら、それでも付いてくるのかな。行きたいの?わたしは困惑して、だけど尋ねた。ホテルに行こうと言われたら、行ったかもしれなかった。
 男の目に、かすかに痛みの影が走ったように見えた。きみは。男は言った。きみは無防備で、それで人を傷つける。
 もうここで別れましょう。今日は楽しかった。お休みなさい。男は最後にもう一度笑顔を見せ、軽く礼をし、背を向けて、歩み去っていった。もう会うことはない。それが痛いほどよく分かった。
 わたしの足はすくみ、声は出なかった。きみは無防備で、それで人を傷つける。そんなつもりはないのに。目の前にいる人を、傷つけたくないだけなのに。けれど男は去ってゆき、わたしは後に残されて、いつまでも夜の中に佇み続ける。
# by tokok2 | 2006-04-28 23:12
多幸感
 気分が塞いでいたので、近所のヨガ教室へ行った。ヨガをするのは初めてであった。
 フィットネスクラブの中に開設された教室で、受付には女の人がひとり、クラブのジャージを着て立っていた。健康状態に関する質問用紙に記入させられ、前金を払い、ロッカールームの使い方の説明を受け、着替えるとスタジオに入った。
 マットが七枚ほど敷いてあり、それで一杯になるような小さなスタジオだった。照明を落としてあって暗かった。ほんのりと暖かく、温帯植物園を思わせた。先に入っていた女の人が三人ばかり、体を前に曲げたり伸ばしたりしていた。自分はどこに体を落ち着けたらいいかよく分からず、所在無かった。
 講師が入ってきたと思ってみれば、先程の受付にいた女の人が、ヨガ用の衣類に着替えてきたのであった。お金を支払ったり事務的な手続きをしてもらったりしたばかりの人が、こうして姿を変えて現れると、役者が面を取り替えて舞台に現れたような、奇妙な気持ちがした。
 音楽がかかった。緩やかなシンセサイザーの、イージーリスニングだった。
「では、瞑想から始めましょう」
 講師が言った。
「半座禅、あるいは胡坐をかいて……親指と人差し指で輪を作って……膝に置いて……鼻から息を吸って……鼻から息を吐いて」
 うたうような声だった。
「ゆっくり深く肺呼吸をします……胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて」
 声に誘われて息を吸い、息を吐いていると、次第次第に考えることはそればかりになっていった。
「胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて」
 意識は自分の中に中に入っていく。
「遠くを見るように目を開けて」
 うたうような声が聞こえたと思ったら、もう目が半眼に開いていた。
「合掌をして……息を吸いながら頭の上に上げて……吐きながら開く……手の平を下に向けて……指先を上に……そのまま胸の前に持ってきて……合掌」 
 体は不思議と言う通りに動く。数度その動きを繰り返した。息が循環して気持ちよかった。
「では、右手を床につけて左手を天井へ向けて……」
 そしてヨガの体験が始まった。
 ヨガが思った以上に身体的な運動であることを、自分は初めて知った。動きは激しくない。決して反動をつけず、緩やかに動く。踊りの型のようなポーズを、数秒止めて保持する。そしてまた緩やかに、もとのポーズに戻る。それだけのことなのに、体のあちこちの筋肉の在りかが、あらためて明らかになるように思う。普段使いつけない筋肉である。わくわくとわななく。体が薄っすらと汗ばんでくる。苦しくなると講師がうたう。
「胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて……」
 ひたすら耳を傾けて、息を吸い、息を吐く。そればかりに集中する。
「胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて……」
 頭の中はまるで中空のようになり、ただ息を吸い、息を吐き、動いてはポーズを取り、また動いてはポーズに戻りしているうちに、体は仰向けに寝るポーズを取った。
「目を閉じてください」
と講師が言った。
 体の隅々まで空気が行き渡ったような不思議な充足感と疲労感の中で、自分は軽く目を瞑った。照明が落とされて、薄暗さがスタジオを浸した。
「首の力を抜いて……肩の力を抜く……胸の力を抜いて……腰の力を抜く……お尻の力を抜いて……腿の力を抜く……ふくらはぎの力を抜いて……かかとの力を抜く……」
 言葉と同時に、体の力が抜けていった。くたくたの袋のようだった。
 講師がゆっくり間隔を空けて鐘を鳴らした。お仏壇のお鈴よりも、はっきりとして澄んだ強い響きであった。歩を進めながら鳴らしているらしく、響きは近づきまた遠ざかった。
 今なら洗脳されても洗脳されるなあ。
 そう思った途端、体の底から笑いが込み上げてきた。とんでもなく幸福な笑いであった。委ねきった時のみに訪れる、溢れかえる幸福感であった。笑いをこらえながら、自分はいつまでもいつまでも幸福だった。
# by tokok2 | 2006-03-13 22:07
水母
 朝、何か水っぽい夢から目が覚めると、自分は大きなくらげになっているらしかった。
 カーテンの隙間から日が差していた。その日は自分の体を透かして布団に光の文様を作り、それがいかにもくらげらしかった。枕元の時計を見ると八時を回っていた。急いで会社へ行かなければならない時間であった。
 体は膜状で妙にすかすかとし、ふわふわと心もとなかった。布団に押し拉げられるような気分がした。こんな布団からは早いところ這い出さなくてはならない。掛け布団と敷布団の間の僅かな隙間を縫うようにして、やっと布団の外に逃れ出た。
 顔が洗えるかどうか不安であったが、丁度長い触手が二本伸び、手のように使えるらしかった。タオルを使い洗面所の鏡をつくづく見ると、やはりくらげであった。その時になって、やっとどこが顔だか分からないことに気付いた。今洗った部分は一体どこだったのだろうか、もうはや分からない。恐らく傘の部分だろうとは思うが、そこが顔なのかどうかはまた分からない。化粧などはすべきなのだろうか、成る程化粧品類は箱に収まってそこにあるが、今までどうやって化粧をしていたのか、分からなくなっていた。
 部屋に戻って床を見ると、脱ぎ散らした洋服がだらしなく横たわっている。ふと、昨夜の酔態を思い出したような気がした。だから成る程水っぽい夢など見たのだろうと思った。触手で触ってみたが、着方を忘れていた。覚えているにしろ、このくらげの体では纏いようもないと思った。
 結句、素顔の裸で外に出ることになるが、くらげであるからどっちにしろ構う人などいまい。それよりは遅刻をしないことの方が先決である。
 外に出た。二本の長い触手以外は短いものが生えているきりなので、どうやって歩いたらよいか迷った。体のあちこちを動かしてみた挙句、傘の端っこのひらひらした部分を波のようにふわふわさせて、空気に乗って移動すればいいのだということが分かった。そうしてみれば体は軽く、空を泳いで快適であった。
 地下鉄に乗り、最寄の駅で下りる頃には、たくさんの線から下りる人々が合流して、太い流れができていた。一様に不干渉で、不活発で、不機嫌な表情は、個々の特徴を消してひとつのうねりとなった。汚れた海だった。
 いつか見た、東京湾。緑色に、澱んで、濁った水の面に、捨てられたビニール袋のようにゆらりゆらりと、くらげが漂っていた。深く、浅く。捨てられた、ごみのように。そんなものを自分はいつ、見たのだろう。思い出せない分からない。ただ、確かにいつか見た。こんな風に、くらげになる前に。
 会社に着いたが、誰も挨拶をしなかった。自分が透明だからかもしれないと思った。
 デスクに向かい、ノートパソコンの電源を入れて、表示されたパスワードの請求に、入力する言葉を忘れていることに気付いた。これまで毎日同じ言葉を叩き込んでいたということが嘘のようだった。しばらく椅子に腰掛けたままぼんやりと考えて、ようやく、最後が「12」という数字であったことを思い出した。試みに、「kurage12」と入力してみた。驚いたことにパソコンは反応した。体が液状化するような嫌な気分がした。
 黙りこくって仕事を始めた。大した仕事がある訳ではない。顧客のリストを淡々と入力していくだけである。
 オフィスのそちこちで、音がする。電話の音、呼び声、話し声と笑い声。誰も自分を呼ばない。誰も自分に話しかけない。コーヒーを飲もうと思った。給湯室に向かって歩く、その真正面から歩いてくる者がいた。まるでこちらを見ない。まるでよけようとしない。ぶつかる、と思ったら、その者の歩く風圧で体がふわりと浮いて、その者はまるで何事もなかったかのように歩き去って行った。コーヒーは苦いばかりだった。自分がますます透明になっていっているような気持ちがした。
 席に戻ると、誰かが誰かに自分を指さして何か言っていた。しかしその言葉はまるで要領を得ず獣語のようで、何と言っているのか分からない。しかも誰かが誰かに言うだけで、自分に伝えられる訳ではないようである。よくよく見れば、それは自分を指さしているのではなくて、自分のデスクを指さしているのであった。自分はいよいよ透明が増すような気持ちがして、一心にパソコンの画面を見つめて、根を詰めて仕事をした。根を詰めれば詰めるだけ、ふと気が遠くなる瞬間が度々訪れた。
 やがて、昼の暖かい日差しが差し入った。春なのであった。日は自分の体を透かしてデスクを明るく照らした。朝の透かし方とは比べ物にならないくらい、それは透明なのであった。自分は遂に悟った。
 誰彼が、三々五々と昼食に立ち始めた。自分はその中で静かに座っていた。自分はくらげなのだ。透明になって誰も知らない、くらげなのだ。おそらくそれは、ずっとずっと以前から決まっていたことで、自分がそれを知らなかっただけなのだろう。
 日は暖かだった。それはそれは暖かだった。
 自分は席を立った。窓をそっと開けた。二十三階の眺めは安らかに高かった。自分は窓を乗り越えた。短い触手が窓枠をつと離れた。ふわりふわりと落ちた。空気の抵抗を受けて、落下傘のように柔らかく落ちた。そのまま行くかと思ったが、どの階を過ぎる頃からか、急に体の重みを感じ始めた。
# by tokok2 | 2006-03-04 06:47
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