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ここでは、極めて短い掌編小説を試みようと思います。どこか奇妙で、ありえないのにそれらしくなりたち、ヘンな可笑しみさえ感じられるような連作集になればいいなと願いつつ。
by tokok2 HOME&Ranking
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多幸感
気分が塞いでいたので、近所のヨガ教室へ行った。ヨガをするのは初めてであった。
フィットネスクラブの中に開設された教室で、受付には女の人がひとり、クラブのジャージを着て立っていた。健康状態に関する質問用紙に記入させられ、前金を払い、ロッカールームの使い方の説明を受け、着替えるとスタジオに入った。 マットが七枚ほど敷いてあり、それで一杯になるような小さなスタジオだった。照明を落としてあって暗かった。ほんのりと暖かく、温帯植物園を思わせた。先に入っていた女の人が三人ばかり、体を前に曲げたり伸ばしたりしていた。自分はどこに体を落ち着けたらいいかよく分からず、所在無かった。 講師が入ってきたと思ってみれば、先程の受付にいた女の人が、ヨガ用の衣類に着替えてきたのであった。お金を支払ったり事務的な手続きをしてもらったりしたばかりの人が、こうして姿を変えて現れると、役者が面を取り替えて舞台に現れたような、奇妙な気持ちがした。 音楽がかかった。緩やかなシンセサイザーの、イージーリスニングだった。 「では、瞑想から始めましょう」 講師が言った。 「半座禅、あるいは胡坐をかいて……親指と人差し指で輪を作って……膝に置いて……鼻から息を吸って……鼻から息を吐いて」 うたうような声だった。 「ゆっくり深く肺呼吸をします……胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて」 声に誘われて息を吸い、息を吐いていると、次第次第に考えることはそればかりになっていった。 「胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて」 意識は自分の中に中に入っていく。 「遠くを見るように目を開けて」 うたうような声が聞こえたと思ったら、もう目が半眼に開いていた。 「合掌をして……息を吸いながら頭の上に上げて……吐きながら開く……手の平を下に向けて……指先を上に……そのまま胸の前に持ってきて……合掌」 体は不思議と言う通りに動く。数度その動きを繰り返した。息が循環して気持ちよかった。 「では、右手を床につけて左手を天井へ向けて……」 そしてヨガの体験が始まった。 ヨガが思った以上に身体的な運動であることを、自分は初めて知った。動きは激しくない。決して反動をつけず、緩やかに動く。踊りの型のようなポーズを、数秒止めて保持する。そしてまた緩やかに、もとのポーズに戻る。それだけのことなのに、体のあちこちの筋肉の在りかが、あらためて明らかになるように思う。普段使いつけない筋肉である。わくわくとわななく。体が薄っすらと汗ばんでくる。苦しくなると講師がうたう。 「胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて……」 ひたすら耳を傾けて、息を吸い、息を吐く。そればかりに集中する。 「胸板厚く……息を吸って……息を吐いて……息を吸って……息を吐いて……」 頭の中はまるで中空のようになり、ただ息を吸い、息を吐き、動いてはポーズを取り、また動いてはポーズに戻りしているうちに、体は仰向けに寝るポーズを取った。 「目を閉じてください」 と講師が言った。 体の隅々まで空気が行き渡ったような不思議な充足感と疲労感の中で、自分は軽く目を瞑った。照明が落とされて、薄暗さがスタジオを浸した。 「首の力を抜いて……肩の力を抜く……胸の力を抜いて……腰の力を抜く……お尻の力を抜いて……腿の力を抜く……ふくらはぎの力を抜いて……かかとの力を抜く……」 言葉と同時に、体の力が抜けていった。くたくたの袋のようだった。 講師がゆっくり間隔を空けて鐘を鳴らした。お仏壇のお鈴よりも、はっきりとして澄んだ強い響きであった。歩を進めながら鳴らしているらしく、響きは近づきまた遠ざかった。 今なら洗脳されても洗脳されるなあ。 そう思った途端、体の底から笑いが込み上げてきた。とんでもなく幸福な笑いであった。委ねきった時のみに訪れる、溢れかえる幸福感であった。笑いをこらえながら、自分はいつまでもいつまでも幸福だった。 by tokok2 | 2006-03-13 22:07
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